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しばらく黙つていた後で、房一は
この時さう云ひながら座に入つて来た者があつた。それは今泉だつた。
房一は向ふへ行きかけた。徳次はさつきから云はうとしてまだ云ひ出せずにいることがあつた。それに何と呼びかけていゝかも判らない。房一の姿は段々遠のく。突然、徳次は散々思ひ屈した後に出るあの大胆さで大声に叫んだ。
その空地の隣りに低い築地塀ついぢべいをめぐらした家がある。築地はもう何十年かあるひはもつと前に造つたものらしく、所々の壊れた荒壁を後から後から塗りなほした箇所がそれぞれ違つた土の色をして、それさへ剥はがれかゝつている。だがその築地の内側にある家はこれも外まはりに劣らず古い低い平家で、外から見ると、築地の上にそのだゝつぴろい大きな屋根がまるで、伏せをした恰好に見えるきりだ。そんな風にかこまれているので、外部から覗かれる家の有様と云つたら、ちやうどそこだけ築地が中に向つて露地のやうな様子で切れこんでいる家正面の入口だけだつた。それも、今ではよほど田舎へでも行かないと見られないやうな、広い黒ずんだ欅板けやきいたの式台と、玄関の障子の両側には黒塗りの横桟の入つた脇戸までがついた、恐しく奥まつた、人間で云ふと極端に内気な独身の四十男のやうな様子をしていた。
「ふむ、ふむ」
これは房一が河原町に帰つて以来、はじめて感じたものだつた。すでに、路上から徳次の姿を見つけたとき、房一はこの男をすつかり忘れていたのを後悔していた。
その時ふいに、相沢の濁み声が聞えて来た。唇はうごいたが、眼玉があんまりさつきのまゝだつたので、その声はどこかよその方から、相沢の人並以上にぴんと張つた耳のうしろあたりから響いて来たやうに思はれた。
房一は狡猾な顔で老医師を見た。だが、前よりなほ気楽げな様子になつた正文は、房一の方をろくに見もしないで、
「それをよこしたまへ。二足なんていらんよ」
そして、少し横手に身をひきながら、しげしげと房一を眺めた。感慨無量、と云つた態ていであつた。
「何だらう?」
「途中から帰つて来たんだよ」