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今、彼の目の前には大石医院の塀づくりの家が立つていた。その家は彼が借り受けたあの古びた家とふしぎに似通つていた。ちがふのはもつと大きやかで、手入れのよく届いていることだつた。築地の壁土は淡黄色の上塗りが施され、一様に落ちついた艶を帯びていた。そして、玄関に向ふ石畳は途中二つに分れ、右手は別建の洋風な診察所につづいていた。房一は瞬間どちらへ行つたものかと思つたが、左手によく拭きこまれた玄関の式台を見ると、まつすぐその方に進んだ。
云はずと知れたことだ、といふやうに徳次はそのきよろりとした眼を上げて小莫迦こばかにした風に小谷を眺めた。大きい麦藁帽子を被つているので、小谷のやさしい顔立ちはひどく女らしく見えた。
あのことだな、と房一は思つた。訊いてどうかな、とは感じたが、相手があまりさつぱりしているので、
男はうむを云はせなかつた。
「よし。――さうしとかう」
房一はまだ考へ深さうにしていた。
が、要するに房一が腹に据ゑかねて座を立つたのはもつともだ、といふことに落ちついた。何でもなかつた。鍵屋の隠居が面喰つただけだつた。房一の方から云へば、彼は自分の存在を認めさせることになつた。それは、手ごはい、喰へない男、としての「医師高間房一」だつた。そして、こんな風に善かれ悪しかれ人に取沙汰される男は、河原町ではきはめて興味ある存在にちがひなかつた。
「御焼香を。――どうぞ、お近いところから御順に」
広い家の中では盛子一人だつた。もうとつくに羽織袴も居間に出して置いたし、履物も足袋も揃へた。帰りさへすればすぐにも出かけられるのだ。だが、足音も聞えはしない。盛子はさつきから何度も玄関に出てみたり、それから裏口から外の小路に出て河原の方をすかし見たりした。
「さうさう、先だつてはお加減がわるかつたさうですが――」
「途中から――?」
と、云つた。
房一はあれから相沢の息子を診みに五六度行つた。殆どその度ごとに会つているので、相沢知吉といふ人物については一通りのことは知つているつもりだつた。同時に相沢の経歴についても聞知していた。